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帝国ホテル 東京 × 朝日マリオン・コム

食事券プレゼント連続企画

――「移り行く 時代の証人」(1980年11月18日付朝刊より)―― 当時、90周年を迎えた帝国ホテルを、朝日新聞はこう報じました。 いつの時代も、その中枢で歴史を刻んできた帝国ホテルは、紙面にも欠かせない存在だったのでしょう。 そして2020年、帝国ホテルが130周年を迎えました。 これを記念し、帝国ホテル 東京が館内レストランの食事券を、抽選で朝日マリオン・コム読者にプレゼント。 掲載は随時。かつて紙面を飾った、帝国ホテルの記事や広告と共にご紹介します。
130周年記念食事券プレゼント企画は終了いたしました。

1年間、ありがとうございました!

帝国ホテル130年の歴史

1890年11月3日 帝国ホテル開業
(明治23年)
「本日開業」の広告 —1890年11月7日付 朝刊— 最終面4ページ目の最下段に掲載。「本日開業」とあるが、正式な開業日は11月3日。当時の紙面によると3日は休刊日とあり、やむを得ず日付をずらしての掲載となったのだろうか。とはいえ「本日」の文字はそのまま。当時は活版印刷のため、文字修正も簡単ではなかったのかもしれない。想像が膨らむ。
(朝日マリオン・コム編集部)
1910年 (明治43年)
日本初 ホテル内郵便局を開設
1911年 (明治44年)
日本初 ホテル内ランドリーサービスを開始
「建築家の美しい夢」 ライト館完成間近 —1922年(大正11年)5月20日付 夕刊— 帝国ホテル2代目本館の完成が間近に迫ったことを報じる記事。設計は、20世紀を代表する建築家、フランク・ロイド・ライト氏(1867~1959)。「生きた創造的精神の充実した芸術品を日本に寄与するのが私の願いである」との記事中の言葉が印象的だ。その翌23年(大正12年)9月1日、待望の開館日当日。あの歴史的大災害「関東大震災」が発生する。「帝都は見渡す限り焦土」と大阪朝日新聞が伝える中、完成したばかりの2代目本館は幸いにして最小限の被害にとどまった。当時、罹災して新聞の発行が不能となった東京朝日新聞は、仮事務所を帝国ホテル内に設置したと、9月4日発行の手書き号外で報じている。大震災をも耐え抜いた2代目本館。大正から昭和にかけての社交の中心、文化の発信地として華々しい歴史を刻み、人々から「ライト館」の名で親しまれた。そして1967年、老朽化のため惜しまれつつ解体された。ホテル内「オールドインペリアルバー」には、現在もライト館で使われた大谷石やテラコッタが残され、当時の面影を伝えている。
(朝日マリオン・コム編集部)
1923年9月1日 (大正12年)
帝国ホテル2代目本館(通称:ライト館)開業
1923年以降 日本初 ホテルウエディングサービスを提供 写真は1925年頃
「これも画時代的 ツェ伯号空の献立」 試行錯誤の調理場 —1929年(昭和4年)8月11日付 朝刊— この年の新聞は、世界一周に挑むドイツの巨大飛行船の話題で持ちきりだった。飛行船を開発したドイツ人のツェッペリン伯爵から「ツェッペリン伯号」と名付けられたこの飛行船は、当時世界最大の全長約235メートル。事前の新聞でも「飛来する大怪物 いよいよ世界一周」などと形容され、人々の夢と憧れを一身に集めた。アメリカを出発し、ヨーロッパ、シベリアを回って、茨城県・霞ケ浦に途中着陸・滞在することが決定すると、同年7月25日朝刊で、航路を手書き地図で紹介するなど、ツェ号の動向を逐一報じる紙面からは、当時の盛り上がりが伝わってくる。

ツェ号が日本滞在をした後、アメリカへ戻るまでの空の旅の食事を任されたのが、帝国ホテルだった。写真の記事では、ツェ号の到着を前に、目下準備に追われる調理場の様子を伝えている。

巨大飛行船とあって、乗客・乗員も大勢。アメリカまでは4日間を見込んでいるが、予備を含めて6日間分の食事の準備が必要という。3日分は機内の冷蔵庫に入れられるが、最初3日分の食料を腐敗せずに保存しなければならず、その保存方法に大変苦心していると記事は報じる。料理を缶詰にしたり、箱にドライアイスをいれて密閉したり、料理人たちが当時の技術と知恵を集結させ、試行錯誤を繰り返したという。

なお、記事によると、「空の献立」はベーコンや卵、コンビネーションサラダといった洋風が連なるなか、日本らしく「牛肉のすき焼き」と「温かい御飯」も。飛行船から地球を見下ろしながら食べるすき焼きの味。どんなに格別だろうか。
(朝日マリオン・コム編集部)
1933年10月6日 (昭和8年)
日本初の本格的山岳リゾートホテルとして
「上高地帝国ホテル」開業
1936年 (昭和11年)
ロシアの声楽家・シャリアピンが二度目の宿泊
「シャリアピンステーキ」が誕生。現在では「ラ ブラスリー」にて提供している名物料理の一つ
  • フョードル・イワノビッチ・シャリアピン
  • シャリアピンステーキ
1954年 (昭和29年)
マリリン・モンロー宿泊
滞在中に彼女が食した朝食メニューを、現在は
宿泊プラン「レディーズプラン」のオプションメニュー「マリリン・モンローブレックファスト」として提供
1958年8月1日 (昭和33年)
日本初 ブフェスタイルのレストラン「インペリアルバイキング」開店
  • 本館料理長一柳一雄(右)と新館料理長村上信夫(左)
  • インペリアルバイキング開店当時のメニュー表
「台所の“選手”306人 ~開会めざして」 主力はバイキング料理 —1964年(昭和39年)3月22日付 夕刊—  57年前、開催迫る東京五輪に向け、夕刊では「オリンピック特集 開会めざして」と題した特集を、8回にわたり掲載した。3回目のこの記事では、選手村の食事を手がける料理人たちに焦点が当てられた。「60万食と取組む」とうたった記事には、全国各地のホテルから集められたコックを代表し、大役に意気込む若き料理人の手紙が綴られている。

 紙面右側、大皿に盛られた華やかな料理を前に5人のコックが写る写真は、帝国ホテルで撮影された。「食事の主力はバイキング料理」という見出しに、「宗教によって牛やブタを食べない選手もいる」というキャプション。食べ物に制約がある各国の選手たちの胃袋を満たすには、「好きなものを好きなだけ」食べられるバイキングは、うってつけだったのだろう。

 左から2番目でスープをすくっているのは、当時帝国ホテルコック長をつとめていた故・村上信夫氏。ローマ五輪の調理現場を見てきた人物だ。東京五輪では食堂運営の責任者の一人として、代々木選手村にある3食堂の一つ「富士食堂」を任された。食材保存のための冷凍技術の導入や、集まった料理人たちへの帝国ホテルのレシピの公開など、その活躍ぶりは帝国ホテルの「レガシー」として後世に伝えられている。
(朝日マリオン・コム編集部)
1964年10月 (昭和39年)
東京オリンピック開催。
当時の新館料理長村上信夫が選手村食堂「富士食堂」の料理長として活躍
東京オリンピック1964大会選手村での村上信夫の様子
1970年 (昭和45年)
帝国ホテル 東京 現本館開業
1975年5月 (昭和50年)
イギリスのエリザベス女王陛下・フィリップ殿下来館
午餐会が帝国ホテルで開催され、その際に提供した魚料理が「海老と舌平目のグラタン エリザベス女王風」。
現在も「ラ ブラスリー」にて提供している名物料理の一つ
「移り行く時代の証人」 90年の歩みを振り返る —1980年(昭和55年)11月18日付 朝刊—  紙面中央部、見開き旧7段分。ベタ黒の縦カットには「帝国ホテル90年」の文字。創立90年を迎えた帝国ホテルの特集記事だ。

 左側は、年表と4枚の写真が並ぶ。上から木造洋風の初代建築、新婚旅行で宿泊したマリリン・モンローとジョー・ディマジオ(昭和29年2月)、大正時代の仮装ダンスパーティーの様子、名物料理長・村上信夫氏のコック姿。小さいモノクロ写真の中のモンローの笑顔がひときわまぶしい。

 右側は、解体中の「ライト館」の写真(昭和42年12月)とライト氏がデザインした食堂のイスの写真とともに、「最古参」「実用新案」といったキーワードで、ホテルの歴史が綴られている。

 帝国ホテルの「最古参」? 誰かと思うと、なんと調理場の「銅鍋」のことらしい。太平洋戦争が勃発すると、料理長だった石渡文治郎氏は数百の銅鍋を大倉庫へ隠した。「うちの親方はカンがいいですからね」と村上信夫料理長。鍋の上にイスやテーブルを積んで隠す念の入れようで、終戦後、自由営業が再開する昭和27年4月までそのまま保管された。「ナベ類は料理の生命ですから」と村上氏。調理場には、50、60年ものはザラで、創業当時から使っている鍋もいくつかあるという。つまりこの時で90歳だ!

 続く「実用新案」では、帝国ホテルの歴史に欠かせない、名物メニュー「シャリアピンステーキ」と「バイキング料理」の誕生秘話を伝える。「シャリアピンステーキ」は、「声楽の王者」と呼ばれたロシアのバス歌手フョードル・シャリアピンに由来する。彼がホテルに滞在中、毎晩のようにこのステーキを注文するほど気に入ったことから、ホテルの申し出で命名に至った。

 「バイキング料理」は、フランス・パリで研修中だった村上信夫氏が、研究し持ち帰った料理スタイル。「バイキング」の名は、従業員から募集して、投票で決まった。その頃、映画「バイキング」が大ヒットしていたという。バイキング料理は後に全国に浸透し、時代を超えて受け継がれていくことになるが、このときの従業員はそんな未来は思いもよらなかったかもしれない。

 1890年(明治23年)に「日本の迎賓館」ホテルとして誕生した帝国ホテル。「移り行く時代の証人」と表されるほど、長い歴史には、当時の世相や人間模様が色濃く刻まれている。言い換えればそれは、帝国ホテルが常に時代に寄り添い、その中枢に存在し続けてきたという結果なのだろう。

 昨年、開業130年の節目に掲げられたスローガンは「歴史にふさわしく 未来にふさわしく」。新たな時代の幕開けとともに、帝国ホテルの歴史をこれからも見届けたい。 (朝日マリオン・コム編集部)
「ひと欄 九十周年を迎えた帝国ホテルの取締役料理長 村上信夫」 —1980年(昭和55年)12月1日付 朝刊—  「顔もからだも、特大のフライパンのようにまんまるい」。この日の朝刊コラム「ひと」欄はこんな描写で始まる。

 描写された村上氏は、よほど温厚でユーモアのある性格なのだろう。メガネをかけコック帽をかぶり、快活な笑顔を見せる写真からも、温かな人柄がうかがえる。

 「体重は?」との記者の質問に「96、7キロです」との答え。そこで見せられた二の腕の太さと硬さに、記者が驚きをみせる。「重たいナベを扱うのです。体力がなくてはつとまりません。(略)柔道で鍛えました。五段です」。当時60歳。

 18歳で帝国ホテルに入社。戦後、ヨーロッパで修業を積んだ後、1969年に料理長、1970年に取締役料理長に就任した。日本のフランス料理界の第一人者でもある村上氏。調理場では何百人ものコックを育てた。

 自身も見習いのころは、厳しい修業を積んだ。メモを取ることができない調理場。先輩から料理法を聞き出すと、さりげなく腕に書き留め、後で紙切れに書き直し、帰宅するとノートに克明に書き記した。ソースの作り方は、鍋の底の残りをこっそりなめて勉強したというエピソードもある。

 「包丁のリズムも単調なのはいけません。強弱のある、音楽的なのがいい。私も部下の包丁の音、聞き分けますよ」という記事中の言葉には、料理へのこの上ない愛情が伝わってくる。その後、帝国ホテルの専務に就任してからも、厨房の白い仕事着は脱がなかった。「私の仕事は帝国ホテルの料理を後輩に伝えること」と、現場へ情熱を注ぎ続けた。
(朝日マリオン・コム編集部)
1983年 (昭和58年)
日本初の複合ビルとして「帝国ホテルタワー」が開業
「テーブルの上から、時代は動くのかもしれない。」全面広告 —1990年(平成2年)11月3日付 朝刊— 1枚の皿の上に置かれた活字のメニュー表。開業100周年を迎えた帝国ホテルが、全面広告で伝えたのは、長い歴史の数々でも、歴代の客人たちのエピソードでもなく、開業当時の晩餐メニューだった。
国際化の波が押し寄せる1890年(明治23年)に誕生した帝国ホテルは、一つのテーマを背負っていた。それは「生活文化の維新」。他国の文化を自国の生活に取り入れ、理解していくこと。フォーマルなパーティスタイル、西洋のテーブルマナー、昭和33年には「インペリアル・バイキング」が誕生した。日本におけるバイキングの発祥だ。好きな料理を好きなだけ取り分けるブフェ形式は、「欧米の自由で合理的なライフスタイルを私たちに実感させてくれた」と広告記事は伝えている。そして、続けてこう説く。「時代や社会の変化を促す力は、等身大の、生活や文化のなかにある―」と。
今年8月、「インペリアルバイキング サール」が大きく生まれ変わった。安全・安心対策の徹底、デジタルツールとの融合、出来たてのおいしさを味わうという料理の本質を追求した新しい「オーダーバイキング」スタイル。
開業130周年。時代を見つめ、料理を見つめ、生活文化を見つめ続けてきた帝国ホテルの新たな提案、ひとつの答えがここにある。
(朝日マリオン・コム編集部)
1996年3月15日 (平成8年)
「水・緑・花そして光と影」をテーマに
「帝国ホテル 大阪」開業
2012年 (平成24年)
IMF・世界銀行年次総会が東京で開催。
帝国ホテル 東京がメイン会場の一つに
2020年 (令和2年) 帝国ホテル開業130周年 スローガン「歴史にふさわしく 未来にふさわしく」

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