江戸の生活や風俗を写した浮世絵版画。隆盛を誇った寛政6(1794)年、彗星のごとく現れたのが、いまだ謎の多い絵師、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)。雲母摺(きらずり)を施した黒色を背景に歌舞伎役者の一瞬の表情や動きを克明に切り取って描いた役者大首絵は、多くの江戸町人を驚嘆させた。
本作もその一枚。「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」で、腰元と恋に落ち、主家を追われる伊達の与作を演じた二世市川門之助を描いている。もの言いたげな瞳、への字に閉じた口もと、胸もとにとどめた右手に、何かをこらえる与作の心情がうかがえる。
鷲鼻を誇張し、鬢(びん)から垂れる後れ毛までも描写した写楽の役者絵は、それまでのブロマイドのような役者絵とは異なっていた。「ファンとしてはもっと、理想的な姿で描いてほしかったのかもしれませんね」と、学芸員の衣斐唯子さん。わずか10カ月ほど活動して表舞台からこつぜんと姿を消したのは、こんなことが影響したのかもしれない。