画面いっぱいに描かれた富士山はほぼ全体が白い雪に覆われ、背景はつやのない漆黒で塗り固められている。手前の木々や草原を繊細に描くことにより、山の雄大さ、美しさをより際立たせている。
新潟県出身の横山操(1920~73)は10代で上京、川端画学校で学んだ。日本画の革新を目ざす青龍展に20歳で初入選するが、その年召集。中国大陸で終戦を迎えた後、中央アジア・カザフスタンの炭鉱で抑留生活を送る。復員した時は30歳になっていた。
ネオン会社で働きながら制作を再開。溶鉱炉や工場、ダムなどを題材に、時にはススや石炭を顔料に混ぜた黒を基調に直線的な表現で描いた。
62年に青龍社を脱退すると水墨画を手がけ、故郷の風景を描くなど画題にも変化が生まれた。富士山をはじめ伝統的な画題を扱うようになったのも、主題の新しさだけが絵画の革新ではないと気づいたからかも知れない。
53歳で病死。長いとはいえない生涯で、約2千点の富士山の絵を残した。