「世界に進出した美濃の美術品」として評価された西浦焼は、現在の岐阜県多治見市で美濃焼の生産・販売を取りまとめ、明治初めに製陶業に乗り出した西浦家が手がけた。明治後期になると透明なうわぐすりの下に多彩な色で模様を施す「釉下彩」など最先端の技術や流行を採り入れ名声を確立、多くは欧米に輸出された。
しかし明治44(1911)年、東洋一とまで言われた製陶工場は米国の恐慌などの影響により閉鎖された。
この時、残された作品を散逸から救ったのが、加藤た禰(1880~1964)だった。水力発電所を造り「多治見電燈所」を創設した乙三郎の妻だ。「これほど優れたものは二度と焼けない」と、約30点を購入した。大胆な構図で、籠の外のひなの羽に釉下彩の表現が見られる本作もそのうちの1点だ。
これがきっかけで、た禰は桃山陶など8千点に及ぶ陶磁器コレクションを築いた。小さな陶片まで収集するた禰が理解されない時期もあったというが、価値ある品が地元に残った。