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【SP】日本のスティービー・ワンダーになりたい
シンガーソングライター佐藤ひらりさん インタビュー

 大学卒業を機にプロのシンガーソングライターとして活躍を目指しているシンガーソングライター、佐藤ひらりさん(22)。5歳の時に美空ひばりさんの「川の流れのように」に出会ってからずっと、音楽の道を歩き続けてきました。生まれつき目が見えない佐藤さんの約17年の音楽人生と、二人三脚で歩み続けてきた母の存在、これからの夢を語っていただきました。取材後記では、東京・日本橋で開催されたお披露目ライブの様子も紹介します。(聞き手・田中沙織)

※佐藤ひらりさんは4月4日(木)朝日新聞夕刊「グッとグルメ」に登場します。

 

――5歳の時に、美空ひばりさんの「川の流れのように」を聞いて音楽に目覚めたそうですね。

 

 保育園に電子ピアノがあって、自動演奏で美空ひばりさんの「川の流れのように」が流れていました。当時は誰のどんな曲かもわからなかったのですが、私の目が上をむいて聴き入っている姿に先生が気付き、母にそのことを伝えてくれたそうです。
 それからというものの母や保育園の先生が、ひばりさんの歌をたくさん聞かせてくれました。ひばりさんが大好きになった私は、何を歌ってもひばりさんのモノマネをしていました。

 ひばりさんの曲そのものに惹かれたんです。「この曲で私は変わっていくんだな」と、幼いながらも思ったのかもしれません。

 

佐藤ひらりさん

 

――そこから、本格的に音楽の道に進まれたんですか。

 

 保育園での出来事をきっかけに、ただただ音楽が好きになってからは、まだ歌を歌いたいとは思っていませんでした。
 母が、私が家に置いてあったおもちゃのピアノを指一本で弾いている姿を見て、「ピアノは全ての指を使って弾けるんだよ」と言って、ピアノ教室に連れて行ってくれました。
 そして、ひばりさんのモノマネをしながら歌う私のために、歌のレッスンにも連れて行ってくれました。

 初めて人前で歌ったのは6歳になる直前。老人ホームでのボランティアで歌わせていただきました。
 おじいちゃんやおばあちゃんたちに、「上手だったよ、ありがとう」「また来てね」って言っていただいた時が本当に嬉しかったんです。そして、「歌を歌おう」と思うようになりました。

 

――5歳から今に至るまで17年間、青春は音楽と共にあったのですね。

 

 「もう無理」と言いながらも駆け抜けています。自分のキャパシティーを超えるような大きな仕事をいただいたときや、身に余る声をかけていただいたとき、疲れたとき、何度も逃げそうになりました。

 そんなときは必ず、母がなんとかしてくれました。

 

――お母さんの存在も大きいんですね。

 

 母は不安になっている私に、「絶対に大丈夫だから」「絶対に大丈夫だから」と言い続けてくれるんです。ものすごい勢いで背中を押してくれて、気付けば、苦しみを乗り越えることができるんです。
 私が隠したいことも全て、見抜くんです。私のことをとことん知っている。それが本当に嬉しくて。私が強がって、「大丈夫」とか言っていても、大丈夫じゃないことを1番知っています。
 よく、「友達みたいな会話だよね」って言われるんです。お互いにしっかり話し合える間柄ですし、普通の家族っていうよりも、友達であり、良きパートナーのような存在です。

 

――いつも、歌の練習はどういうふうに取り組むんですか。

 

 いろんなやり方があります。多くは、元の音源を耳コピするまで何度も聞き続けて、ピアノで弾いて覚えていきます。
 自分の曲の場合は、歌詞を何度も書き直したりするので、新たな歌詞を歌って録音して聞いて、歌い直して……というのを繰り返します。
 点字で書いて覚えることもありますが、私は苦手なんです。声に出して体で覚えていくスタイルです。

 

――自身のどういうところをアピールしていきたいですか。

 

 歌はもちろん、トークでも楽しんでいただけるようになりたいです。歌だけを聞いていただくと、「綺麗な声だね」といっていただくことはよくあります。それだと、綺麗な歌を歌っている正統派路線になります。
 しかし私は、自分の音楽に対する研究熱心な姿勢やオタク気質なところも生かしていきたいです。好きな音楽について語り出すと、ついつい早口になっちゃいます(笑)

 以前、ネパールで現地の歌を歌ったとき、「日本人では発音しにくい音を、なんでそんなに上手に発音できるんだ」と現地の方に言われました。私は、自分の歌と本物の音源をひたすら聞き比べて、ネイティブな発音に近づけるように研究するのが好きなんです。
 そういう一面も知っていただけると嬉しいです。

 

――これまでの約17年を振り返ってみて、今何を思いますか。

 

 本当にたくさんの人に応援していただいたというのが一番です。生まれ育った新潟にいた頃からたくさんの人に背中を押していただき、今は東京に暮らしています。東京に来てからも、公演やステージなどいろんな人にいろんな場所に連れて行っていただき、歌わせていただくことができています。そしてそこで、また新たに出会いが広がることもある。

 そして、自分の夢を人に言い続けてきました。

 学校の講演会で歌わせていただくときも、筑波大附属視覚特別支援学校の音楽科に進学するときも、「私の夢は東京オリパラで国歌を歌うことです」と言い続けました。
 すると、私だけの夢だったはずなのに、いつの間にか応援してくれるみんなの夢に変わっていったんです。そして、2021年の東京パラリンピック開会式では、国歌を独唱する夢を叶えることができました。

 挫折したときも、「あのとき、私の歌を聞いて喜んでくれた人がいたな」「あの人のためにがんばりたいな」と思えたんです。それが本当に嬉しかった。

 

――夢を言い続けることが大切だったんですね。

 

 私だけじゃ、やっぱり足りないんです。「かなえたい」と言った夢を、他の人たちがずっと応援して、保ってくれているんです。
 母にも、「夢は叶うまで言い続ければ叶うんだよ」「何回やったからダメとかは無い」としつこいほどに言われ続けて、今があります。

 

――今の夢は何ですか。

 

 障害関係なく私の歌を聞いていただけるようになりたいです。「全盲のシンガーソングライター」として紹介されることが多いのですが、テレビやネット、公共の場で流れてきた私の歌を聴いた人が、あとから「この人、目が見えなかったんだ」という順番に変わってほしい。“日本のスティービー・ワンダー”になりたいんです。彼を、福祉の目で見る人は少ないのではないでしょうか。そういうふうに、私も変わっていきたいんです。
 今の最も大きな夢は、スティービー・ワンダーご本人と共演することです。
 物事を恐れたり自信をなくすこともありますが、どんどん音楽の世界に突き進んでいきたいです。

 

 取材後記 

 2月29日、東京・日本橋のライブ会場で、関係者や招待客向けのお披露目ライブが開催されました。約80人ほどの観客が見守るなか、平原綾香さんの「Jupiter」のカバーで開幕。音楽人生のきっかけになった美空ひばりさんの「愛燦々」や中島みゆきさんの「糸」など時代に残る名曲の他、「アメイジング・グレイス」なども明るく伸びやかに歌い上げました。
 自身が作詞作曲した歌を披露する際には、制作したきっかけや歌詞に込めた思いを丁寧に紹介。観客の手拍子と共に歌った「ほめられて伸びる子行進曲」は、大人になるにつれて褒められる機会が減ることに対して、「ほめて ほめて 私をほめて ほめてくれないと伸びないよ」という歌詞には自身の願望も込めたと、笑いを誘いました。しっとりとしたメロディーで歌い上げた「月灯り」では、故郷を思い出してほしいと優しく語りかけていました。

 2月中旬に朝日新聞社で行った取材で、「糸」が好きだと語った筆者に対して、「この曲には、自分のたどってきた道を重ねやすい」と話していた佐藤さん。その言葉を裏付けるように、取材中、「数々のご縁をいただき、それが繫がって今がある」と何度も語っていた姿が印象的でした。
 佐藤さんのお話しを聞いて改めて、誰かと出会うことの大切さを考えました。そして、自分の夢や興味を言葉にすることの強さを学んだように思います。
 この記事が、佐藤さんの夢を繫げていく一つになれば、と思います。

 ライブ後に行われた囲み取材で、改めて“歌”への思いを話してくれました。

 

お披露目ライブでの様子

 

――無事に終えましたね。手応えはどうですか。

 

 とても緊張していましたが、私のトークに皆さんが笑ってくれたり、手拍子をしてくれたり、ステージと皆さんとのコールアンドレスポンスがあったおかげで、楽しく歌いきることができました。

 

――歌詞の情景が浮かんでくるようでした。

 

 私は目が見えないので、他の人が見えている情景を、同じように心に浮かべることができないと思っていました。それは、自分の歌を作るうえで悩みでもあったんです。
 しかし無事にライブをやり遂げた今、伝えたいメッセージをしっかり歌に込めれば、聞いてくれる人が浮かべている情景に、私が想像するイメージを重ねることができるのではないかと思いました。
 皆さんが五感を用いるように、私は音や匂いなどの感覚を使って、聞いてくれる人の心にマッチする歌を歌えるようになりたいです。

 


佐藤ひらり

さとう・ひらり シンガーソングライター。2001年生まれ、新潟県三条市出身。武蔵野音楽大学総合音楽学科作曲コース4年。東日本大震災の後、初めての自作曲「みらい」のCDの売り上げを震災遺児あてに寄付。2021年の東京パラリンピック開会式で国歌を独唱。現在はピアノの弾き語りや作曲で活躍。

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