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寄席や劇場と、ジャンルのこと

浅草はいま、旅行客で猛烈にごった返しております。

私たち浪曲師が棲息しているいわゆる「浅草奥山」(浅草寺の西側、国際通りまでの一帯)は、私が入門したころ、芸人か自営業者かやくざかしか歩いていなかったのですが、いまは抹茶クレープやらたこ焼きやらカレーパンやらに一般観光客の大行列ができています。

その奥山の中核に、私たちのお城、浪曲定席の「木馬亭」があります。

 

2005年、玉川美穂子(現・奈々福)プロデュースで開催した

「玉川福太郎の浪曲英雄列伝」全5回初回の日の、木馬亭。

森幸一さん撮影

 

2025年5月1日、木馬亭は開場55周年を迎えました。

毎月1日から7日まで、開演は12時15分、終演は16時過ぎで、七席の浪曲と講談一席が聴けます。木馬亭を経営する根岸興行部と一般社団法人日本浪曲協会との共催で、浪曲にとってまさに「城」たる場にして継続しています。

 

 

落語、講談、浪曲を日本三大話芸といいますが、明治末期から昭和30年代前半まで浪曲が圧倒的な人気を誇っていたそうです。現在、落語家さんの数は全国で約1000人ほど。過去最高に多いらしいのですが、昭和18年の記録によれば、当時浪曲師は全国に3000人いたらしい。私の手元にある「昭和22年藝能陣長者番付」を見ますと、トップ10のうち6人が浪曲師です。

 

 

ところが、昭和30年代後半から浪曲人気はすさまじい勢いで衰えます。それについては、いろんな理由、いろんな分析がありますが、とにかく浪曲が大衆から見放されて人気がなくなったという客観的な現実がありました。

もともと浪曲は、旅回りの多い芸能でした。全国の興行師たちが浪曲師たちの巡業ルートを決めて回していた。全国的に回る売れっ子もいれば、地方限定で巡業する方もいた。人気が落ちたら興行師たちは一斉に手を引く。浪曲師たちは自主興行という経験がほぼないので、興行師に手を引かれたらお手上げでした。

 

木馬亭のロビーに飾ってある、昭和28年の浪曲技芸師番附。

こんなに浪曲師はいたのでした。

 

かくして3000人いた浪曲師は激減。ある方は引退し、ある方は歌謡曲や、漫才や、ボーイズや……、他ジャンルに移り、ある方は「堅気」に戻り。

それが昭和45年になって、浅草奥山に浪曲の定席が開場したのです。

浅草でもっとも古い興行社、浅草オペラなど多彩な興行を手掛けられた「根岸興行部」が、どん底状態にあった浪曲のために定席(定期公演)の寄席を開いてくださったのです。

それが、「木馬亭」。

ここがなかったら……。

ここが、なかったら……。

平成7年に入門した私は、木馬亭55年の歴史のうち、30年しか知りません。でも、入門した30年前、楽屋には、若手が数名いるほかは、おじいさんとおばあさんしかいなかった。客席にお客さんが10人もいないときもけっこうあった。どうしてこの寄席が続けていられるのか、なぜ私が今日1000円もらえるのか、全然わからなかった。未来がまったく感じられなかった。

 

夜の木馬亭。御堂義乗さん撮影 

 

それでも木馬亭の木戸には、美しくて優しくて厳しい根岸のおかみさんが毎日座っていらした。おかみさんの横には、ボランティアで木馬亭の支配人的な仕事をしてくださっていた浪曲研究家の芝清之さんがパイプをくゆらしていらした。客席後方の、木馬亭が映画館だったときの映写室には「月刊浪曲」という浪曲専門誌の編集部があって、編集長の布目英一さん(現・横浜にぎわい座館長)がいらした。

そして定席に出演する浪曲師の師匠方は、客が少ないことなんかまったく意に介さぬ様子で、精いっぱいの声を張って、降りてくるとパンツまで汗びっしょりになっていた。一度堅気の仕事についたが、木馬亭が開場したから戻ってきたんだよ、という方も多かった。

 

 木馬亭の舞台で、師匠・福太郎を弾くわたくし。森幸一さん撮影

 

出番じゃない浪曲師も楽屋に来て、自作の絵を楽屋に飾ったり、曲師のお師匠さんが手作りのおかずを持ち込んでみんなで食べていたり。終演後、ご贔屓様が仕出しをとってくださって、楽屋で打ち上げをしたりしていた。

そのころ楽屋にいたおじいちゃんおばあちゃん浪曲師の方々は、浪曲の黄金期を経験してきた方たちでしょう。お金ないのに、お金稼げないのに、浪曲が好きだから、浪曲を続けたいから、そこに集まる人たち。

この場所がなかったら。

10人でも来てくれて、浪曲聞いてくれるお客さんがいなかったら。

私は木馬亭がなかったら、浪曲というジャンルがいままで存続していられただろうかと、思います。

 

2015年、玉川奈々福自主公演「浪曲破天荒列伝」全5回の舞台より。

御堂義乗さん撮影

 

ここがあったからこそ、浪曲は絶滅せずに続いてこられたのではないか。

浪曲は旅回りの芸能であったと申しました。旅もさまざま。大都市の寄席で他のジャンルにまじって修行した人もいれば、全国の大きな劇場ばかりを回っていた大看板の師匠方、地域限定でまわっている方などなど。東京の落語のように、全員寄席育ちといった修行のフォーマットがなく、浪曲師としての生き方、あり方はいろんな形があったのでした。

それが「定席」という場所ができたことで、若手が入ってきたときの修行のフォーマットがある程度できるようにもなったのです。

そうそう、私が入門して10年ちょっと経ったころから、若手が続々と入門してきました。彼らは「定席」という場で育っている。基本的に同じ修行の形で育っている。

たとえば、寄席の始まりを告げる一番太鼓、二番太鼓。

私の入門当初。古い師匠方は、人によって全然打ち方が違ったんです。若友師匠スタイル、琴路師匠スタイル、元春師匠スタイル、全然違う。お祭りの太鼓みたいなのを打つ方もあるし、いったいどれで覚えればいいんだよ~~~っ???

その下の世代の師匠方になると、寄席修行をしていないので一番太鼓、二番太鼓はCDを使っていて太鼓を打てない。打たない。

さらに下のわたくしども、さあどうする。といって、定席でCDを使い続けるのもどうか。とりあえず私はCDの音から耳コピーして覚えました。

 

 舞台袖で一番太鼓を打つ。橘蓮二さん撮影

 

しかし、これではまずいだろうと、その下の世代からは、私が落語芸術協会の師匠方にお願いをして芸術協会の太鼓教室で習ってもらった。以降、それを受け継ぎ、木馬亭の太鼓は、落語の寄席で打つ太鼓の形を、先輩から後輩に伝えています。

そのほか、お茶の準備、舞台の転換、キガシラの打ち方、テーブル掛けの扱い方、楽屋の上下のわきまえかた……。

 

 

師匠・福太郎が使っていた柝頭は、いま奈々福が受け継いでいる。

橘蓮二さん撮影

 

寄席の準備から追い出し太鼓まで、番組をスムーズに進めるのはけっこう大変。それを、先輩から後輩へ受け継ぐ形で、若手は現在も修行しています。

「定席」があるからこそ、集えるからこそ、できる修行です。

その場が継続していくためには、お客さまに来ていただくことが必須。

幸いにして、浪曲は、私が入門した30年前とは比べられないほど、定席にお客さまにお運びいただいています。でも、もっともっと。

 

 2015年「浪曲破天荒列伝」の舞台。満席の客席。

御堂義乗さん撮影

 

浪曲が、浪曲を支えてくださった木馬亭が、さきわいますように!!!

いま、国立劇場の再建が頓挫したままになっています。

文楽や日本舞踊、その他、日本の伝統芸能のジャンルの多くが、ノマド状態になっています。国立劇場だけではありません。渋谷のオーチャードホール、シアターコクーン、東京芸術劇場、帝国劇場、秋には紀尾井ホール、来年には東京文化会館、そして読売ホールまで、建て替えや再開発で閉じるとか。

演芸も、日本橋亭が建て替えのためにしまっています。

めまいがします。

文化施設が一斉に……、いったいどういうことだ。

一定期間であっても、同時にそれだけ「場」が失われることによって、行き場、修行の場、発表の場を失う芸能は、技術や精神の継承において、大きな傷を負いかねない。ジャンルの継続においても、危機的な状況になりかねない。

いいんでしょうか、それ。

日本は世界的にみて、たぶん古典芸能が稀有なほど多く継承されている国ではないかと思っています。売り物の少なくなったこの国で、もしも無くなったら一朝一夕では復活できない、貴重な「芸」について、もう少し国は思いをいたしてくださってもよいのではないかと、思っています、切実に、切実に。

 

たまがわ・ななふく 横浜市出身。筑摩書房の編集者だった1995年、曲師(三味線弾き)として二代目玉川福太郎に入門。師の勧めで浪曲も始め、2001年に浪曲師として初舞台。古典から自作の新作まで幅広く公演するほか、さまざまな浪曲イベントをプロデュースし、他ジャンルの芸能・音楽との交流も積極的に取り組む。2018年度文化庁文化交流使としてイタリアやオーストリア、ポーランド、キルギスなど7カ国を巡ったほか、中国、韓国、アメリカでも浪曲を披露している。第11回伊丹十三賞を受賞。

7月19日と20日、東京・銀座の観世能楽堂で独演会を開催。

 

◆「ななふく浪曲旅日記」は毎月第三土曜に配信します。