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朴葉味噌 火を入れ思う食と時間

朴葉味噌=農林水産省のウェブサイトから

 わたしが大学時代に所属していた能楽部は、毎夏、岐阜県高山市の旅館で九泊十日の合宿をする慣例だった。

 年に十日、つまり四年間で一ヶ月以上を過ごした宿は居心地がよく、卒業後もあれこれ口実を作っては、同級生や先輩・後輩と定期的に泊まりに行っている。食欲旺盛な大学生が三十人以上も泊まり込むのだから、宿の方も面倒を見るのにさぞ大変だったに違いない。ただこの宿はいま訪れても食事がとても美味しく、しかも鮎の甘露煮やら山菜といったご当地の味をさまざま出してくださるので、非中部圈出身の学生にとっては未知の味覚とも出会う楽しい場でもあった。


 中でもわたしが大好きだったのは朴葉味噌で、卓上ミニコンロに載せた朴の葉に味噌を塗り、ネギやシイタケを混ぜ焼きしながら、ふつふつと煮えたところで摘まみ取って食べる。料理としてはシンプル極まりないが、これがしみじみと美味しいのだ。わたしは呑めないが、酒のつまみにはもちろんよし、ごはんのお供としてももってこい。ついつい、もう一杯お代わりをしようかと考えさせられてしまう、なかなか危険な代物だ。

 東京で先日、岐阜の料理を出す居酒屋に行く機会があった。当然、メニューには朴葉味噌が記されており、わたしは真っ先にそれを注文した。だが、出てきたのはこれまた岐阜のご当地グルメの一つ、飛騨牛がさまざまな野菜とともに載せられた、彩り豊かで豪華なものだった。

 確かに美味しくはあった。厚切りの肉と味噌が混ざり合ったそれは、立派な一品料理として成立していた。しかしわたしが好きな朴葉味噌はやっぱり、具材よりも焼き味噌そのものの味わいを楽しむ素朴なものなのだな、とつくづくと思った。

 とはいうものの、土産物屋で売られている朴葉味噌セットを買って帰り、家のコンロで作っても、不思議にあの味が出せない。目の前でちまちまと火を入れ、作りながら食べる。あの時間も含めての味わいなのだ。そう考えるにつけ、またあの宿に出かけたくなる。

 食べ物をいただくとは命をいただく行為だとよく言われる。ただわたしは一方でいつも、食べ物を口にするとは、それが完成するまでの時間を占有することだと思わずにはいられない。

 食材が育ってきた時間、料理が完成するまでの時間。一皿の食事には、膨大な時間が集約されており、食べるという行為によって、人はそれらをすべて自分の中に取り込んでしまう。とすると食事とは、なかなか傲慢な行為だ。そしてそれはお湯を入れるだけで簡単に食べられるインスタント食品でもコンビニ弁当でも同じ話なのだが、もはや食べるだけの状態でわれわれの前に供される料理はどうしても、それが完成するまでの膨大な時間を見えづらくする。

 朴葉味噌を焼く卓上コンロの火は弱々しく、いつも出来上がりまでちょっと時間がかかる。焦げたところが美味しいから、と待とうとすると、更におあずけを喰らう。

 そのもどかしい時間はいつもわたしに、そうそう、何かに火を入れるって時間がかかるんだよねと思い出させてくれるとともに、これからその「時間」すらを口にするのだと――食べるという行為の傲慢さを言い聞かせてくれる。

 この上なくシンプルで味わい深く、それでいて食事とは何かを突き付ける。朴葉味噌とはわたしにとって、そんな奥深い味なのである。

 

 

 


 

澤田 瞳子さん

 さわだ・とうこ 1977年生まれ。同志社大文学部文化史学専攻卒業、同大学院博士前期課程修了。2016年『若冲』で親鸞賞、21年『星落ちて、なお』で直木賞受賞。『赫夜』『孤城 春たり』など著書多数。

澤田 瞳子さん

Ⓒ富本真之