歌手でお笑い芸人のタブレット純さんが、自身のエピソードを交えながら昭和歌謡の魅力を紹介します。(撮影協力:ディスクユニオン昭和歌謡館)
昭和歌謡とのなれそめをムード歌謡から話しましょう。きっかけはラジオ番組です。朝の時間帯のAMラジオには、玉置宏という昭和歌謡の司会の象徴のような人がいました。小学生だったので、休みの日に彼の番組を聞いていました。そこでは古い歌謡曲がばんばん流れていた。いい歌が多かったのでラジカセでタイマー録音したものを繰り返し聞いて。自分の入った和田弘とマヒナスターズはその番組で流れる率が高かったと思うんです。
自分が生まれる前の歌にいい歌が多いというか、オンタイムで流れている音楽よりも魅力を感じてしまって。オンタイムだと、中森明菜、チェッカーズ、吉川晃司。昭和歌謡が一番元気だったといわれる頃ですね。久米宏と黒柳徹子が司会した「ザ・ベストテン」も高視聴率だった。自分はそっちにはいかず、アイドルとかにも興味はあまりなかった。
ムード歌謡というのはちょっと背伸びして大人の世界へのあこがれみたいな感じ。実家は相模原市の山の方だったので、東京にあこがれがあった。ムード歌謡がその東京の夜の風景をよく表していました。
それと、車の中で父が水原弘のムーディーな歌声のカセットテープをずっと流していて、しみついていた。それがひょっとしたらラジオで目覚める前の下地になったのかもしれない。ムード歌謡は、ゆったりと時の流れに寄り添っている感じが自分の性格にも合っていたのかも。オンタイムの音楽だともっとテンポが速く、いわゆるポップス全盛時のものだった。
あるラジオ番組を台所で流していたらマヒナスターズの「泣きぼくろ」がかかって、初めて耳にして衝撃を受けました。自分の好きな要素が全部ちりばめられている。マヒナスターズの音楽は、深海に漂うクラゲのような妖しさに満ちていて、モッタリ感もあって。「七色のコーラス」がまた、東京のネオンサインを想像させられた。小学6年の時にマヒナスターズが自分の究極だって思ってしまって、卒業アルバムの「好きな芸能人」の欄に「マヒナスターズ」と書いたくらい(笑)。
ムード歌謡だけでなく、フォークとか、GS(グループサウンズ)とか、小学校高学年の頃には全部さらっていて、そのなかでムード歌謡は自分の究極点かもしれないと思っています。
歌詞の内容でいうと、大人の恋愛模様を描いている。ちょっと淫靡(いんび)な、「こんなの聞いてていいんだろうか」みたいな感じ。
他のジャンルとの違いは、女性の言葉が出てくるところ。「私、待ってます」とか「体、じゅうぶん注意するのよ」みたいに母性本能を表現したり、女言葉で歌われたりする歌が多くて。そこも自分のなかで陶酔してしまう部分、女性になりたい自分の願望みたいなものが体現されている。
実は僕、当時から歌うようにもなっていたんです。まだ声変わり前だったので、マヒナスターズのパートも全部できた記憶があります。裏声とかで「ひとりマヒナ」をやっていた。
転校してきた同級生で、カトウくんという変わった子がいて。今はほとんど見かけないデコレーショントラック、トラック野郎が大好きで、そりこみも入れていた。そのカトウくんにだけ歌を聞かせたことがあります。そしたら「異常にうまい!」みたいなことを言われた思い出があります。
僕のことを「社長」って呼んでたんです。僕は相撲が好きで、両国まで一緒に行って、その帰り道に電車賃がなくなって、2時間くらい家まで歩いて帰ったことがありました。その間、マヒナスターズの歌を2人でずっと歌いながら歩いた。僕が歌うと「社長、なんでそんなにうまいんですか」ってびっくりされて。カトウくんも以前、僕が貸したカセットテープのマヒナスターズの曲を全部覚えていたんです。「同級生でも、こういう歌が好きだと言ってくれる人がいるんだ」って心強く思いました。