福岡最大の歓楽街に近接して、宮殿のようにそびえ立つ「ホテル イル・パラッツォ」。赤と緑の鮮やかな色使いと窓のないファサードに、目を奪われました。日本初といわれるデザインホテルは、どのように誕生したのでしょうか。当時を知る内田デザイン研究所の長谷部匡さんにうかがいました。
(聞き手・深山亜耶)
ホテル イル・パラッツォ外観
――1989年に完成した「ホテル イル・パラッツォ」はどのような経緯で建てられたのですか
歓楽街・中洲に近接した春吉地区は当時、印象があまり良くない場所でした。初代オーナーは、不動産ビジネスと絡めながらまち全体をよくしたいと思案し、その出発点として様々な人が出入りするホテル建設が始まりました。
健全な開発にするためには「健全なデザイン」が必要だと考えていたオーナーは、日本を代表するインテリアデザイナーの内田繁(1943~2016)に声をかけました。当時はバブル時代ですが、流行に消費される建築ではなく、文化として根付く建築をイメージしていました。
「デザインで街の健全な成長に寄与できるなら、面白い」。そう共感した内田は、建築設計をイタリアの建築家、アルド・ロッシ(1931~1997)に依頼します。70年代のロッシは幾何学的で装飾のない簡素な建築が多かったんですが、ポエティックな面もある。日本で仕事をしたことがなかったロッシですが、すぐに日本にやって来ました。
長谷部匡さん
――その後、ロッシはどんな提案を持ってきたのですか
外観はいまの「イル・パラッツォ」そのものなのですが、最初の提案は、ファサードだけのドローイングでした。2回目は、ファサードだけの模型を持ってきて「日本っぽいだろう」って言うんですよ。どこが日本っぽいのか我々には分からなかったんですが、京都で見た寺院の柱と梁が整然と並んだ様子を見て解釈したようです。当時は、ポストモダンをどう解釈するかが建築でも問われた時代で、ロッシなりのポストモダンの一つの形だったのではないかと思います。
ヨーロッパではファサードは重要で、隣の建物と連動しながら街並みを作る性質を持っているものや、教会などのように強い正面性を示すものもあります。それらの要素に日本っぽいものを折り込んだファサードだったのではないでしょうか。
――正面に窓がないのは
窓を作ると俗性が発生します。純粋にファサードの造形を作りたかったのではないでしょうか。教会のファサードは、窓がないことがほとんど。そういう神秘性のようなものも、意図したのではないでしょうか。
那珂川通りから見る
当初は正面の階段をのぼり、広場がある2階が入り口だった
――ロッシとともにインテリアデザイナーの内田繁がディレクターを務めたのも当時は画期的だったと聞いています
ホテル専門のデザイナーや大手設計事務所がホテルを作るのが当たり前の時代。インテリアデザイナーがホテルをつくるのは衝撃的なことでした。日本初のデザインホテルの走りなんです。オーナーがとことんデザインで勝負しようと決断したからできたのだと思います。
当時、ホテルはハレの日に行く場所。だから絢爛豪華だったりするわけです。だけど同じ時代、ニューヨークやロンドンではブティックホテルが登場して、クラブの延長のような感じでホテルがあった。若い人や文化人、アーティストたちが都市の遊びをする受け皿になっていました。アメリカのイアン・シュレーガー、フランスのフィリップ・スタルク……。要するにデザイナーがデザインするんです。そこに世界中の人たちが注目し始めた時代でした。
日本では初めてのデザインホテルだから、100室以下で小さく、その代わり顔が見えるようなホテルにしようと内田は決めました。親密な繋がりの中で成り立っている小さいホテルが良いのではないかと。小物も灰皿にいたるまで徹底してデザインしたんです。アメニティー、ボールペン、約款まで担ったのは、グラフィックデザイナーの田中一光さん(1930~2002)です。現在のホテルのロゴも完成時から変わらず田中さんのデザインです。
――ホテル棟の両側面に路地があり、路地の反対側にそれぞれ別棟があります
設計の最後に、それぞれの別棟を二つの同じ大きさの空間にわけ、あわせて四つの空間を4人のデザイナーがデザインしたバーにすることが決まりました。倉俣史朗(1934~91)、ガエターノ・ペッシェ(1939~2024)、エットーレ・ソットサス(1917~2007)、そしてロッシです。
ロッシのバーは日本酒のバーでした。当初ロッシではなく他のデザイナーに依頼する予定だったそうですが、「俺は一番日本酒を飲んだイタリア人だから、俺も一個バーをデザインしたい」っていうのがロッシの口説き文句だったみたいですね。
アルド・ロッシがデザインしたバー ©Nacása & Partners Inc.
倉俣史朗がデザインしたバー ©Nacása & Partners Inc.
エットーレ・ソットサスがデザインしたバー ©Nacása & Partners Inc.
ガエターノ・ペッシェがデザインしたバー ©Nacása & Partners Inc.
――ほかのメンバーはどう決まったのでしょうか
20世紀初頭にバウハウス(ドイツの造形学校)ができて、モダンデザインが確立されました。戦後しばらくは合理主義・機能主義がデザインの主流だったわけです。デザインの世界でそれに「ノー」を言い始めたのがイタリア人で、「機能主義は分かるけど、人間はもっと官能的で感情的なものだろう」と言い始めるんですよ。それを受けて、もっと人間味のあるデザインをしようと運動を起こして、いわゆるポストモダンの時代になっていくんです。
その運動を裏で支えたのが、エットーレ・ソットサスです。日本でこうした反モダンデザインの流れに加わったのが、建築家の磯崎新さんやインテリアデザイナーの倉俣史朗さんなどです。だから内田としては、ポストモダンになっていくきっかけを作った人たちに声をかけたんです。彼らもそれはわかっていて、見事に応えてくれました。デザインはそもそも多様だということです。
別棟中央の天井
――路地はイタリアの街並みと関係しているのでしょうか
ロッシは路地が好きだったようです。大きい道から路地に入っていくと面白いものがいっぱいあるじゃないですか。イタリアでも、路地に椅子とテーブルを出したり、カフェからオーナメントが出ていたり。イル・パラッツォは建築だけど、一つの小さい都市を作ろうという考えがあったと思うんです。
四つのバーは当初、路地側からのみ入るように出来ていました。建物を横切る通路もあり、一つの「まち」の中に路地が縦横無尽に通っていることが重要なんです。
別棟前から見る
路地
――完成時、ロッシや内田さんの反応は
二人ともすごく気に入っていて、満足そうでした。当時はCGもないから、出来た姿を見て「やっぱり違うね」って言っていましたね。ロッシも「日本の施工精度はすごい」と。
――昨年、改装して新たにオープンされました
2代目の所有者の時に、完成時の趣旨とかけ離れた内装になってしまったんです。そこに今の3代目のオーナーが疑問を持って、当初の価値に戻した方がいいんじゃないかと相談に来られました。そこからプロジェクトが始まりました。当時関わった多くの人が亡くなり、全体像を知る人はほぼいなかったので、資料を探して時系列的に整理するところから始めました。
外観夜景
――真っ青なエントランスが目を引きます
来館者は1階の青いエントランスを通って地下のレセプションに向かいます。日本人は古くから結界を意識してきました。ドアを開けたらつい立てがあるとか、廊下の先にリビングがあるとか、奥へ行くための結界、空間がある。神社でみると、本殿にたどり着くまでに鳥居や参道が一種の結界としてあるように、この青い空間を通って意識を変え、俗性を排除してホテルに入っていただくというコンセプトです。
1階エントランス
――受付がある地下に降りると、黄金色に輝くモニュメントが現れます
ロッシのバーにあったモニュメントを、今回の改装で地下のラウンジに移築しました。その手前には内田が晩年手掛けた「ダンシングウォーター」を置きました。水面の揺らぎが天井に映るインテリア装置です。これは「ロッシ・ミーツ・内田」ですよね。見る人が見ると歴史を感じられるシーンを作ったんです。改装では「リ・デザイン」をテーマに、当初のデザインボキャブラリーを新しい形に翻訳してちりばめています。客室のソファも、元のソファの色を使って新たにデザインしました。
リ・デザイン後の地下のラウンジ
――「リ・デザイン」を振り返って、いかがでしたか
依頼はありがたかったけど、すごくプレッシャーはありました。イル・パラッツォは内田の代表作であり、ロッシの建築。当時ホテル関係者で知らない人はいないくらい、日本のホテル史にも出てくるような作品ですから。
「リ・デザイン」はまだ終わっていません。別棟について、ヨーロッパのデザイナーと組んで新たな計画を予定しています。イル・パラッツォは、やっぱりコラボレーションの建物だから、また新たにコラボレーションしようかなと考えています。これから発展していくので、期待していてください。
▼建モノがたり本編「ホテル イル・パラッツォ」(9月17日16時配信)