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昭和レトロの「横のデパート」

防火建築帯を歩く

 

 静岡市の中心市街地・呉服町通りには、1950年代に建った横長のビルが6棟並んでいます。火災の延焼を食い止める「壁」の役割も担う「横のデパート」です。「昭和レトロ」の味わい深い建物の中や裏側はどうなっているのでしょうか。商店街の方々に案内していただき、のぞいてみると……。

(木谷恵吏)

 

記事の後半に「防火建築帯」に詳しい大学教授のインタビューがあります

 

細長い通路でつながった3〜4階。学校みたい!

 雑貨店やカフェなど11店舗が連なる静岡呉服町ビル(1958年完成)。1、2階は店ごとに壁で仕切られていて隣との行き来はできませんが、3〜4階の大半は学校の廊下のように細長い通路でつながり、事務所などが入っています。

 

静岡呉服町ビル

 

 共同ビルは、もともとその地に構えていた複数の店が集まって建ちました。火災からまちを守る「壁」の役割もあるため3階建て以上と決まっていましたが、静岡呉服町ビルの多くの店は「3階以上は使わない」と考えていたそうです。ビルが建つ前、多くの店は1階を店舗、2階を住まいとしていたからです。

 そこで建設当初、3〜4階を県住宅公社が所有して貸事務所にしました。そのため、細長い通路が各部屋をつなぐ作りになっているのです。部屋の扉には、事務所名などが書かれた横長のプレートがかかっていて、学校の教室のようでした。

 

学校のような廊下

 

ビルの奥に続く通路、その先は……

 静岡呉服町ビルの1階。3〜4階に行くための階段やエレベーターがある細長い通路の奥に進むと、貸ギャラリー「青い麦」があります。

 

貸ギャラリー

 

 1958年の建設当初は喫茶店「青い麦」だった部屋。次のテナントが決まるまで、ギャラリーとして活用することになったそうです。コンクリートむき出しの壁に、ビルの往時を感じられます。

 

コンクリートむき出しの壁

 

表から見ると4階建て、裏から見ると?

 店ごとに壁の色が異なる、カラフルな外観が印象的なビル(1957年完成)もあります。4階建てかと思いきや、実は、ビルの一部は表側の壁のみで部屋がない「4階建て風」になっています。

 

 表側から見ても気づきませんが、よく見ると4階に窓ガラスがない部分が……。その場所に上ってみると、一目瞭然。壁と窓枠だけで、まるで舞台装置の裏側にいるかのよう。

 

壁の裏側に広がる空間

 

 こちらも静岡呉服町ビルと同様、「4階は使わない、でも防火のためには4階建てにそろえよう」という考えから仕立てられたのだそうです。

 

ヨーロッパのような街並みに

 呉服町にある共同ビル6棟のうち、もっとも駅寄りにある2棟(1958年完成)。商店街の方たちがヨーロッパの街を訪ねて研究を重ね、歩いて楽しい、美しい商店街を実現しました。

 

歩道も広い商店街

 

 2階のバルコニーの手すりはハンガリー製。バルコニーに出ることはできませんが、景観づくりに一役買っているようです。街路灯やベンチ、時計台なども同じくハンガリー製で、街路樹も植えられた緑豊かな空間は、ヨーロッパの街並みのよう。

 2年前までは、毎週末の歩行者天国の時間に、商店街の方々が手回しオルガンのコンサートを開催していたそうです。手回しオルガンはドイツ製。静岡ゆかりの童謡など10曲を製造元に依頼して作ってもらったそうです。

 

バルコニーの手すりは特徴的

 

近代建築遺産でもある「横のデパート」

 火災の延焼を食い止めるビル群は「防火建築帯」ともいわれます。なぜ全国的に建てられたのか、どのような構造なのか。調査研究をする静岡理工科大の脇坂圭一教授に聞きました。

 

――長屋のようなビルが全国的にできた経緯を教えてください。

 昔はどこの市街地にも木造家屋が密集していたので、火災や戦災で燃え広がって甚大な被害が出ました。そこで、主要な街路沿いに「防火壁」となる建物を作ってまちを火災から守ろうと、1952年に耐火建築促進法が定められました。

 その建物は耐火性のある鉄筋コンクリート造、地上3階建て以上または高さ11m以上で、帯のように長いため「防火建築帯」と呼ばれています(横浜では通称、防火帯建築)。法律が廃止されるまでの約10年間に、全国的に建てられました。さらに1961年、耐火建築促進法を拡充した防災建築街区造成法が施行されると、街区としての整備が101都市341街区の規模で進んだのです。

 

延焼を防ぐ役割も担っている

 

――静岡県には、そのうち45の防災建築街区が残っているのですね。

 大都市では再開発によって建て替わっていますが、地方都市にはビルがそのまま残っているところが多いのです。防火建築帯として最初期に建てられたビルの中で、1954年完成の「沼津アーケード名店街」(沼津市)が有名です。2階部分が歩道上にせり出した構造が当時、先進的だと注目されました。残念なのですが今秋、建物の一街区が解体されることになりました。

 

沼津アーケード名店街

 

 1957〜58年には、静岡市の中心市街地・呉服町の商店街に6棟が完成しました。静岡の市街地はJR静岡駅から800mほどの範囲に商店街や百貨店、官公庁などがあり、歩くのにほど良い距離感。呉服町は横長のビルがほぼまっすぐに連なっていて、歩道も広く歩きやすい商店街です。

――ビルの特徴は。

 

店ごとに幅が違う共同ビル

 

 外観はビルによってさまざまに個性がありますが、街路全体としての調和も感じられます。呉服町のビルを例に説明しましょう。 ビルの1階には、街路沿いにいくつもの店が並んでいますね。ビルができる前からこの地でお店を営んでいた人など、複数の地権者が共同で建てた「共同ビル」なのです。

 建物は柱のスパンを一定に配置した方が合理的ですが、こうした共同ビルの場合、それぞれの所有区分ごとに区画されているので、間口の広さは店によってまちまち(と言っても3~4間が多い)。通りからは見えませんが、奥行きも店ごとに異なっています。

 呉服町の商店街は40年の静岡大火、45年の静岡大空襲で相次いで大きな被害を受けました。そこで、大火後からすでにまちづくりの構想が進んでいました。1階軒高をそろえてアーケードをつけること、2階と3階の窓の高さをそろえることなど、商店街の景観を美しく保つための取り決めもされていました。

 

歩道が広い商店街

 

 さらに、歩道を広げる計画も決まっていました。それぞれの店が2mずつ後退し、通りの両側の歩道幅を4.5mに拡張しています。ちなみに中央部を通る車道は幅6mの一方通行。車道をはさんで向かい側の店とも行き来しやすいですね。

 大火の前、昭和初期には、中心市街地に2つの百貨店が開店していました。それもあって、商店街の店主たちは「横のデパート」を作ろうとタッグを組んだとも聞きます。その後2度の復興を経て、「燃えない」と「歩いて楽しい」を両立した商店街を作りました。当時の商店街の店主たちの思いが、現在も続くまちの形を作ったのだと思います。

 

――全国にある商店街の共同ビルは、現在どうなっているのでしょうか。

 地方都市では商店街を歩く人が減るなか、低層階に商業施設、上階に集合住宅が入る高層ビルへの建て替えも進んでいますが、都市の身の丈を考えたとき高層ビルが必要か議論の余地があるのではないでしょうか。

 共同ビルは築50〜60年を超え、老朽化の問題にも直面していますが、建て替えも容易ではありません。複数の所有者や使用者がいるため、意見の取りまとめが難しいのです。

 当初、ビルの多くは店舗兼住宅として使用されていましたが、今は店舗だけで住まいは別の場所に移したり、店舗をテナント貸ししたりと状況も変わってきています。また、地方の商店街に共通する課題として空き店舗の増加があります。

 商店街の共同ビルの中には、上の階に行くための共用階段がないタイプの建物もあります。一度1階の店内に入らないと、上の階に行くことができません。そのため、階ごとに別の店やオフィスにするのが難しいという課題もあります。

――共同建築ビルを活用している例はありますか。

 静岡市では、市街地のビルの空き部屋を宿泊用の客室に改装した、分散型ホテル「ビル泊(ぱく)」があります。商店街の地下にあるレセプションでチェックインして鍵を受け取り、街に点在する部屋に自分で移動する面白い試みです。

 

ビル泊の一室

 

 浜松市の交差点の一角に立つ築約60年の「KAGIYAビル」も複数の地権者がいる共同ビルでしたが、地元の不動産会社が一括購入してリノベーション。若い世代が営む雑貨店などが入っています。鉄筋コンクリートの肌を見せた内装が、レトロで良い雰囲気。「東京から名古屋まで100件ほど探した物件からこのビルを選んだ」という店主もいます。古さが価値として見出されて改修によって活用された事例から、建て替えありきではない選択肢も知っていただければと思います。