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『峠最後のサムライ』和平を願い、挑んだ“小千谷会談”本編映像解禁!

民と故郷を守るため戦争を避けようと和平に尽力した“知られざる英雄”河井継之助

(C)2020「峠 最後のサムライ」製作委員会
(C)2020「峠 最後のサムライ」製作委員会

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 歴史小説界の巨星・司馬遼太郎が、幕末の風雲児と呼ばれた、越後長岡藩家老・  河井継之助を描いた国民的ベストセラー『峠』の映画化『峠 最後のサムライ』。コロナ禍の影響による計3回もの延期を経て、いよいよ6月17日(金)より劇場公開となる。

 原作者の司馬遼太郎は「私はこの『峠』において、侍とはなにかということを考えてみたかった。その典型を越後長岡藩の非門閥家老河井継之助にもとめたことは、書き終えてからもまちがっていなかったとひそかに自負している」(「峠」あとがき)と記しており、サムライの理想像を河井継之助に見出したと明かしている。主演の役所広司も、 “理想のリーダー像”を体現する継之助を「未来を見据えた、毅然とした態度から出てくる決断力は、リーダーとして理想の人物だと思う」と惚れこみ、熱演した。

 解禁された本編映像では、民衆の生活を守るため武力での戦いを避け、対話での解決を目指した長岡藩の家老・河井継之助(役所広司)が、土佐藩の軍監・岩村精一郎(吉岡秀隆)に和平を願った嘆願書を受け取るよう粘り強く願い出る場面が切り取られ、継之助の「戦わないために対話を諦めない」という強い意志が伝わる。

 徳川慶喜が大政奉還した後、世の流れは薩摩・長州が「明治新政府」を樹立し、一気に倒幕へと進む。新政府に恭順して倒幕派につくか、それとも旧幕府派(佐幕派)につくか。決断が迫られ、日本が二分されていくなか、河井継之助は武装中立の姿勢を貫こうとした。

 継之助の藩政改革も半ばの慶応4年(1868)4月、戊辰戦争がはじまる。江戸城をはじめ、関東一帯を占領した「新政府軍」は、その矛先を東北へ向け、諸藩に対し会津藩の討伐のための出兵と献金を求めるが、その一方的なやり方に納得いかない東北・北越諸藩はその要求をはね付け「奥羽越列藩同盟」を結成し対抗する。両軍の間に挟まれた継之助率いる長岡藩は、新政府軍にも同盟軍にも属さない「武装中立」を表明。しかし、会津への出兵に応じず献金も収めない長岡藩を新政府軍は「敵」とみなし、榎峠を越えて小千谷まで兵を進める。

 継之助は何としても開戦を避けたいと、和平実現のため、新政府軍が本営を敷く小千谷の慈眼寺へ直談判へと向かう。

 面会した新政府軍の軍監は、土佐藩出身の岩村精一郎。24歳の若者であり、継之助との年の差は実に18歳も離れている。継之助が「双方にとって戦いは避けなければなりません」と静かだが鬼気迫る様子で訴え、嘆願書を大総督府に取り次ぐよう願い出るも、岩村は「問答は無用である」と継之助の要求を退ける。声を荒げ敵意をむき出しにする岩村に対し、「お怒りはごもっともでござる」となおも食い下がる継之助。しかし、血気盛んな岩村は武力衝突での解決しか頭になく、「あとは砲弾の中で、相見えるだけのこと!」と継之助の言葉を聴こうとしなかった。

 そうして長岡、ひいては北日本の命運を託した「小千谷会談」は決裂し、継之助の非戦中立の夢も破れる。もはや戦はさけられず、長岡藩は同盟軍に与し、新政府軍との戦いへと突入。「小千谷会談」の決裂は、戊辰戦争最大の激戦地となった「北越戦争」のはじまりとして、さらには継之助の強い意志が発露するシーンとして劇中でも印象的に描かれている。 

映画『峠 最後のサムライ』本編映像

 6月17日(金)全国ロードショー

(記事・画像の無断転載・複製を禁じます。すべての情報は更新時点のものです。資料提供:シネマNAVI )