幕末から明治にかけて新しい時代を切り開いた薩摩藩。当館はそうした時代を中心に鹿児島の歴史を伝える美術工芸品約3千点を収蔵、展示しています。
鹿児島を代表する工芸品の一つの薩摩焼は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、薩摩軍を率いた島津義弘公が朝鮮から80人の陶工を連れて帰郷したことに始まります。勇猛果敢な武将として知られる義弘は千利休の弟子でもあったようで、茶道具への関心から製陶業を企てたのでしょう。
藩窯が築かれ、日用雑器の「黒もん」のほか、白色粘土に透明釉を用いた「白もん」(白薩摩)が開発されます。白薩摩は江戸後期には京都に学んで色絵陶器となり、さらに金泥を焼き付ける金襴手へと発展しました。
白薩摩の素地に菊の花や水の流れが日本画のように描かれた「色絵金襴手菊流水図宝珠紐壺」は、朝鮮陶工の子孫である12代沈寿官(1835~1906)の作品で、海外から戻ってきたものです。
薩摩焼は幕末~明治期に欧米への主要輸出品の一つでした。藩主・島津斉彬が開国に先駆けて貿易振興を目ざしたためで、安価な釉薬の開発や発色の改良などの成果がありました。日本が初めて参加した1867年のパリ万博に出品されて人気を博し、中でも12代沈寿官は内外で高く評価され、明治期の薩摩焼を支えた存在といえます。
中央に島津家の丸十紋、周囲に「薩摩琉球国」の切り文字が見える「薩摩琉球国勲章」は、パリ万博のためにフランスで作られたものです。薩摩藩は幕府とは別に「薩摩太守政府」として万博に参加、この勲章を各国要人に贈り、薩摩を独立国としてアピールしました。
他国と勲章を贈り合うのは当時の西欧のしきたりで、万博の2年前英国に使節団を派遣した薩摩藩はこれを知っていました。幕府も追随して勲章を作ろうとしましたが、万博中には間に合わなかったようです。
(聞き手・千葉菜々)
《薩摩伝承館》鹿児島県指宿市東方12131の4(☎0993・23・0211)。午前9時~午後6時(水曜は1時まで、木曜は1時から、入場は1時間前まで)。1500円。無休。
薩摩伝承館
http://www.satsuma-denshokan.com/
ボランティアガイド・中野 訓(なかの さとし)さん なかの・さとし 1940年生まれ。鹿児島県指宿市出身。ホテル日航プートンシャンハイの総支配人を務め、退職後2018年から現職。 |